第1回・前編「一度離れたフィットネス業界に戻ってきた理由」芹澤宗一郎さん
フィットネス業界で働きたい。でも、どんなキャリアを描けるのか、自分にできるのか、不安もある——この企画では、フィットネス業界の第一線で活躍する人に、これまでの歩みや仕事へのやりがい、これからの目標を伺います。一人ひとりのリアルなキャリアストーリーが、あなたの一歩を踏み出すきっかけになりますように。(取材、執筆:大関まなみ)

第1回は芹澤宗一郎さん(@soichiro_serizawa)が登場。レズミルズインストラクターやパーソナルトレーナー、自身が主催するランニングのオンラインサポート、はたまたモデルまで、マルチに活躍する芹澤さん。プライベートではHYROXの出場を重ね、一児のパパの顔も持ちます。現在は公私ともに充実した日々を送る芹澤さんですが、一度はフィットネス業界を離れるなど、そのキャリアは決して平たんなものではありませんでした。
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ジムで働けば施設をタダで使える―と始めたアルバイト
――まずはこれまでのキャリアについて教えてください。昔から運動はしていたのですか?
高校まで水泳部でした。高校2年生ごろから将来を考えるようになりました。そのときに浮かんだのが、消防士、海上保安官、警察官の3つ。その後、警察官はちょっと違うかな、と思ったりしたんですが、根底には「人のためになる仕事がしたい」という思いがあって。
――そこからフィットネス業界へは、どうつながるのですか。
いずれにせよ体を鍛えないといけない職業だと気づいて、ジムに通おうと考えたんです。でも、高校生なのでお金もない。親に「ジムに通いたい」と言うのも、なんとなく恥ずかしかった。
そこで思ったのが「ジムで働けば、施設をタダで使えるんじゃないか」と。求人誌をめくっていたら、ちょうど近くのスポーツクラブがフロントスタッフを募集していた。フロントでも何でも、働けば施設を使えると思って応募しました。

「糖尿病の薬が減ったよ!」フィットネスを通じて人の役に立つ
――そこでアルバイトを始めたんですね。
高校2年生から働き始めて、大学でも4年間、同じスポーツクラブでアルバイトを続けました。働く中でプールやラディカルフィットネスのレッスンも担当させてもらいました。
――それでも当時は、消防士や海上保安官を目指していた?
はい。ですが、大学4年生の時に東京消防庁を受けて、二次試験で落ちてしまったんです。他の試験は受けておらず、1年浪人が確定してしまい…。
みんなが就職していく中、自分だけ無職はさすがにつらいと思って、スポーツクラブの方に相談したら「うちで社員になれば」と勧めていただいて。どうせ目指すにしても働ける環境があるならと思って、そのままスポーツクラブに入社しました。
――入社してからも、当初の夢は追い続けていたんですか。
最初は両立するつもりでした。帰宅してから勉強もしていましたし。でも働いていくうちに気持ちが変わってきたんです。「果たして自分は消防士になりたいのか」と。人のためになりたくて消防士を目指していたけれど、このフィットネスの仕事も十分に人のためになっている。むしろ、より身近なところで人のためになれると感じ始めていました。
――例えばそれはどんな時に感じましたか。
特に印象に残っているのは、糖尿病のお客様の言葉です。レッスンやパーソナルの指導をきっかけに「薬の量が劇的に減った、こんなことは今までなかった」と、すごく喜んでくださって。そういう声が積み重なっていくうちに、「あ、この仕事でいいんだ」という気持ちが固まっていきました。消防士を目指すのをやめて、フィットネスで行こう、と決意したのはそんな経緯です。

父の逝去をきっかけに、キャリアを考える
――その後のキャリアについて教えてください。
スポーツクラブにはアルバイトを含めると8年ほどお世話になりました。社員になってからの目標は、社内制度で、特に優れたラディカルフィットネスのインストラクターがなれる「マスタートレーナー」というものがあり、それに選ばれることでした。
――レッスンに力を入れていたんですね。
ラディカルフィットネスのプログラムでは「FIGHT DO」や「RADICAL POWER」をやっていました。先輩インストラクターがスタジオで輝いているのを見て、あの場所に立ちたいという憧れがありました。人気インストラクターになって、ちやほやされたいという気持ちも正直ありましたね(笑)。その目標に向かって働き続けて、24歳の頃、晴れてマスタートレーナーになれました。
――それはひとつの節目でしたね。でも、そこで転機が訪れたとお聞きしました。
そうなんです。マスタートレーナーになってすぐ、父が亡くなりました。そのとき、すごく無力感を覚えてしまったんです。仕事ではマスタートレーナーになれて、お客様からも感謝されて、自分の周りでは認められてきた。なのに自分の家族に、何もできていなかった。
ちょうど24歳で結婚もしたタイミングでもあった。スポーツクラブの働き方は朝から夜まで。結婚しても妻とゆっくり過ごせるのは休日くらいで、その休日もミーティングが入ることがある。両親に恩返しも何もできていなかった。自分はこのままインストラクターでいることやフィットネスで働くことに価値があるのかという気持ちになってしまって、退職を決めました。
フィットネス離れた後も、頭の中では「妄想レッスン」をしていた
――退職後は、どんな仕事を。
金融関係の営業に転職しました。会社員として3年、その後フリーランスという形で1年、合わせて4年ほど働きました。
給料は良くなりましたし、時間にも余裕が生まれました。前職時代に比べれば、家族と向き合う時間は確かにできていた。ただ、退職してからもずっと、ラディカルフィットネスの音楽を聴き続けていたんです。

通勤中も、何かの合間も。退職したときにレッスン用具もウェアも全部処分したのに、音楽だけは残していた。しかも聴きながら、頭の中でレッスンをしてしまっている。妄想というか、一人でリハーサルしてしまっている状態が3〜4年続いて、「あ、自分は病気だな」と思いました(笑)。やめたのに、未練たらたらで。
――それが戻るきっかけになった?
そうです。「自分がほんとうにやりたい仕事は何か」を考えたとき、答えはレッスンでした。
振り返ってみると、父が亡くなったことを、仕事をやめる理由にしていた自分がいた。給料のことも、時間のことも、結局は他責にしていたんだと気づいた。インストラクターをやりながら、時間を作ることはやろうと思えばできる。その仕組みを自分で作ればいい。そう思ったら、スイッチが切り替わって、戻ることを決めました。
ちょうどそのタイミングで、営業職をフリーランスに切り替えたタイミングだったので動きやすかったことも重なって、知人の紹介でフィットネス企業のミラーフィットに社員として入り、インストラクターの経験と金融機関での営業経験の両方を活かせる形で働かせてもらいました。同時並行でフリーランスとしても活動して、2025年2月からフリーランス1本になりました。
後編では、現在の働き方やレッスンへのこだわり、将来に向けた考え方について引き続きお話を伺います。
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取材、執筆:大関まなみ
取材ライター兼インストラクター。LES MILLS DANCEインストラクター、バーチャルボクシング®B級認定インストラクター。Instagram:manami_ohzeki
